なかのなか

自分のために書きます

瞬間は長い

 「わたし、このままだと死ぬな」と思ったので専門学校にいくことにした。30歳のときのことである。

 

おサルのかごやだホイさっさ

 誰もが聞いたことがないだろう名前の大学を卒業したあと、誰もが聞いたことのある有名大学の大学院に進学できて有頂天だった私は、入学後に自分と他の学生達のこころざしや努力の分量が段違いであることにショックを受け、「このまま学校にいることよりも実社会にでて働いてこその学問の実践である!」と、自分の非力さを曲解して理由を練り上げ企業で働く社会人になることにした。

 入社した会社は自衛隊仕込みの新入社員研修が有名で、山奥に同期200名と1週間泊まりんで毎日「えーっさえーっさえっさホイさっさ、おサルのかごやだホイさっさ」と腹の底から喉を枯らして大声で歌い叫びながらそのリズムに足並みを合わせて山道を走り続けるというのがその研修の主な内容だった。歩くのも立ち止まるのも歌声を止めるのも禁止。山奥にいるので山道はずっとあるのでということは走り続けなくてはいけないので歌い続けなくてはいけない。リズムも歌声も足並みも200人一緒に合わせて。そういう会社だった。

 

異例の人事で本社へ

 研修が終わった後の配属で同期200名が全国47都道府県に分布される。私は誰もがあこがれる本社勤務を任命され、生まれて初めて関東以外に居住地を移すことになった。まったく嬉しくなかった。学歴が目立つから社長に気に入られたのだというのは誰もが思うことだったし、それをやっかむ人はいても祝福してくれる人はいなかったし、学歴ほどには大したことない人間だと自分が一番よく知っていたからだ。

 なにより、これまで大事な時間を過ごしてきた場所を離れたくなかった。入社前に人事の人から「いま住んでるところから極端に離れるような配属はしないから」と聞いていたのだが、あれはなんだったのだろう。東京支社の7階の、東京タワーがよく見える会議室で言われた内容は。いま住んでるところから赴任先までは、在来線と新幹線を乗り継いで5時間かかる。

 大切な友達や思い出のある場所たちから引っ剥がされて、代わりに「あの子は社長のお気に入り」という紙を背中に貼られて初めての仕事が始まった。

 

「関東弁」てなに?

 ある時、それまで自分が話してた言葉遣いが「関東弁」だというものだと初めて知る出来事があった。きっかけは、お客様との電話である。

 “電話は1コールで飛びついてでも出ろ”と先輩社員から教育された私は、手元の30枚ほどのFAXとパソコンで開いてる3つのウィンドウの処理に手間取り電話を2コールも鳴らせてしまった。慌てて受話器をとり「お待たせして申し訳ありません!○○株式会社△△支店の□□でございます」と新入社員らしく快活な笑顔を声ににじませて丁寧に申し上げると、「あぁ…なんや、おれ関東弁のヤツとは話さへんねん。他の人に替われや」と電話口の男は言った。

 あぁ…そうか、私って、「関東弁」をしゃべってるのか。知らなかった。新しい発見だった。そうか、だから、お客様は名乗ってくれないし、話してる途中で電話をガチャン!と切られるし、その件を先輩に相談しても「あんたが悪いんやで」と言われるんだな。

 そうか、だから、同僚に挨拶しても無視されるし、初めて聞く社内用語の意味を聞いたら「話にならん」と怒鳴られるし、自分に決定権がないことについて問合せがあったので相談すると睨まれるし、「そこで待っとれ」と言われたまま永遠に棒立ちしてなきゃなんないし、棒立ちしてると「待っとれ」と言った本人から「お前そこでさっきから何しとるん?邪魔や」と言われるし、「人として欠けてる」と言われるんだな。そうか、私が「関東弁」をしゃべってるからなのか。

  数年たってから、転勤の辞令が出た。次の場所までは、在来線と新幹線と高速バスを乗り継いで7時間だ。よかった、次はみんなが「関東弁」を話してるエリアに比較的近い。これでもう「関東弁のヤツとは話さへん」と思う人達と働かなくていいんだ。夜中に突然全身に蕁麻疹が出て、朝イチで病院に行って点滴を打ってから出社するということもしなくてよくなるだろう。

 

最寄り駅まで車で40分

 次の赴任先には、駅がなかった。最寄り駅までは車で40分かかる立地で、私には車がなかった。路線バスは90分に1本しか走ってないし、住んでる人達はみんな車で移動するから歩いてる人もいない。いちばん近い本屋さんまでは歩くと1時間だ。 

 私は学生時代に買ったレモンイエローの折り畳み自転車で毎朝通勤した。水田の間をキコキコと自転車をこいで、夕方には空が大きくオレンジに染まるのを眺めて、なんとかこの町のいいところを見つけようと必死だった。今度こそ、「入社早々異例の人事で本社に配属された人」という看板の重さを無視することに決めた。

 赴任先には、昔からの慣例があった。「トイレのタオルは毎日換え、女性社員が持ち帰って洗濯してから会社に持ってくること」、「休日にはお客様の仕事を手伝って、バイト代を頂戴すること」、「お客様の支持する政党の後援会名簿に住所氏名を記入し、選挙時は必ずその政党へ投票すること」。

 トイレは男女共同の和式がひとつだけで、雨の日には閉まらない窓から入り込んだ雨水で便器の周りが濡れる。「□□さんが来る前にいた女性社員は、こういうのタオルで拭いてくれたんだけどな」と言われる。昼休みに気分転換に散歩に出掛けるとお客さんから「□□さんがフラフラしてるけどいいの?」と上司に報告がいき、注意される。定時の2時間前に出社して「遅い」と言われ、定時の2時間後に帰ろうとすると「早いね」と言われる。もちろん時間外の給料は出ない。「関東弁」を指摘されることはなくなったけど、息継ぎをできるようになったわけではないのだ。

 

無視を続ける同僚

 それに、看板の重さは無視しようとしても無駄だった。初日に、お客様からの問合せに即答できなかった私の傍らにいた同僚が「本社から来たわりに大したことないなぁ!」と、私が背負ってる看板を大声で音読してくれたからだ。この同僚もまた、私が挨拶しても毎日無視し続ける種類の人だった。みんなのいる前では。

 赴任してから3日後の昼休み、この同僚は自分の家庭環境がいかに暴力的で嫌だったか、自分はそういう人間にならないようにいかに強く決意しているかを2人きりの休憩室で吐露してきた。1週間後には、車で半日かかる場所で数か月後に開催される野外の音楽イベントに一緒に行こう、と誰もいない退勤後の駐車場で誘ってきた。数か月後、バッタリ道端で会ったら無理矢理手をつないできて「今日は□□さんの家に泊まる!」と言って聞かなかった。その翌日、謝罪の電話がかかってきたので「昨日のことだったら気にしてないし、なかったことにしましょう」と言ったらむっつりと黙り込んだまま何も喋らなくなった。「もしもし?」と言ってもなんの反応もない。

 職場では相変わらず毎日無視され続け、私にだけ書類を投げてよこし、自分が気に入らないことがあると怒鳴り、力の限りにドアを閉めて部屋を出て行く。この人は「暴力的な人間にはならないように強く決意している」はずの人だよね?

 

わたし、このままだと死ぬな

 秋になって、ある週末、私は東京にいた。車やビルや街灯が発する光はまばゆく、自分の口から出た息の白さに気付き始める季節だ。秋とはいえもうこの時間帯は寒い。線路沿いにある大きな時計台を持つ百貨店と、それに続く大型書店。線路を挟んで向こう側にはインテリアショップやアメリカ発祥のコーヒー屋がある。あと一か月もすればイルミネーションがまたたくエリアだ。

 私は百貨店沿いのウッドデッキを歩く人達やショーウィンドウの明るさを右手に、インテリアショップやコーヒー屋に向かうのであろう人達を左手に、その間に架かっている橋の上に立っていた。構造上その橋は百貨店の2階に接続されることになっていて、眼下には駅から延びている何本もの線路が見える。パッと見てわかるほど少なくもないし、正確に数えられるほどの自信もなく、ただ「いっぱい並んでるな」としか認識できない。電車が走ってる街っていいな。駅まで歩いて行けるっていいな。コーヒー屋があっていいな。人が歩いてていいな。東京っていいな。

 これから高速バスに乗ってあの町へ帰り、明日からまた職場に行って無視され、昼休みの散歩を揶揄され、仕事を終えてもすぐ帰ってはいけない雰囲気の中で、平日が始まる。眼下では電車が走ってる。私の吐く息は白い。この橋から飛び降りたら明日会社行かなくていいんだな。あぁ、わたし、このままだと死ぬな。

 

貯金はいくらある?

 そう思ったことにびっくりして吐いたばかりの白い息をヒュッと吸い込んだら、自然と視線が少しだけ上を向いた。線路が吸収されてる駅の上にある白い駅ビルが目に入った。吸った息がつめたい。しばらく外にいるうちに風が強くなってきていて、ほっぺたが痛いし鼻水もでてきていた。私、貯金て、いくらあんだっけ?

 そのあと家に帰って、通帳に記載されてる額を電卓で合計した。普通預金と定期預金。初任給から毎月コツコツと貯めてきた私のお金。「おサルのかごやだホイさっさ」と歌い出した時から決めてたのだ。「いつか必ずまた学業へ戻る。自分のやりたいことを自分のお金でやる」。

 翌週末、私はまた東京に来た。土曜は美術系の大学を受験する高校生達が通う予備校の体験入学に参加し、日曜にはこじんまりした規模の画塾の見学に行った。デッサンするための木炭というものを初めて手に持った。帰り道の古本屋で、元格闘家が書いたエッセイのような小説のようなものをぱらぱらと立ち読みして、本棚に戻した。私は来年の合格を目標に1年間予備校に通うことにした。

 

とくべつではない転機

 その後もいろいろとあって、私は受験と引き換えに給与の減額を会社から言い渡され、予定よりかなり早く退職することとなった。予備校までは片道2時間かかるので週末だけの通学だったが大学と専門学校に合格することができ、卒業後の年齢や学費を考慮して専門学校に進むことにした。

 さらにその後もいろいろとあって、思うようにいかないことも沢山あった。住む場所が変わったり、転職をしたり、人間関係が刷新されたり、新しいことを覚えたり、ここ数年は毎年転機だらけである。そんな軽さで変わるのならどれも転機じゃないよ、転機ってもっと重大でドラマチックで特別なものだよ、と自分でツッコミたくなるぐらいに。

 でも、あの日、橋の上で自分の息と一緒にヒュッと冷たい空気を吸った瞬間を思い出す。あの瞬間、初めて私は「自分が変わりたい時に、自分が変わりたいように、自分で決めて、すすんでいっていいんだよ」という声を自分の中から聞いた気がする。そして、その瞬間が今もずっと続いている。だからいくつもの選択を軽さで重ねてくることができたのだ。「ここから飛び降りたら」なんて重大にドラマチックに考える手前の段階で。

 あの時から転機というものは私にとって、特別なものじゃなくなったのだ。